「ハクヤさん! 名乗らないで下さいって言ったでしょう!」
息を切らしながら走ってきたのはグレミオだった。
「約束すっぽかして、勝手に買い出しに行って――市で行方を尋ね回って大変だったんですから」
「けど、買いに来なかったらシュエリを連れ去られてたぜ?」
ああ、この青年はハクヤという名だったのか。
一つの疑問が解消してシュエリは場違いな満足感を覚えた。
しかし、この場の展開についてゆけずに押し黙ったままの彼は、グレミオに目ざとく見つけられ、気遣うようにゆっくりと助け起こされた。
「ああ! 坊ちゃん! なんてお姿に!」
お気に入りのバンダナはほどけかけて土まみれだわ、首筋にはスランに締められた跡が残ってるわ、あちこちにすり傷だらけだわ、指先には慣れぬ紋章を使ったため軽い火傷まで負ったようだわ――
グレミオが水の紋章の力でかいがいしくシュエリの傷を癒してくれていたが、そんな目先の痛みよりもハクヤのことが気になった。
――ぼく付きの護衛だって?
しかも、グレミオもハクヤのことを知っているようだ。
ハクヤの方を見返ると、彼は石畳に突っ伏したスランを蹴って仰向けにし、彼の下腹を力任せに踏みつけている。
「ぐ・・・ぅ」
さらに、棍の先端をぴたぴたと首筋に突きつけ、
「さて兄ちゃん。ご機嫌でウタッてくれたら痛い目みなくてすむんだがな?」
と、尋問だか拷問だかよく分からないことを始めている。
「・・・そう易々と、口を割ると思ってい」
「思ってねえよ」
「あがぁぁ!」
ハクヤは無造作にスランを踏みつけている右足に力を込めた。
「はいはい、踏みつぶされたくなかったら、とっとと吐く。ほら」
「ぎゃぁぁぁ」
「・・・ハクヤさん・・・坊ちゃんの前で下品な尋問はやめて下さい・・・」
「あ? 何甘いこと言ってやがる。男にはこれが一番効くって長年の経験で知ってんだよ」
どんな経験なんだ・・・と思わずにはいられなかったシュエリだったが、とにかく訊きたいことが山積みだった。
ハクヤは何者なのか?
どういういきさつで自分の護衛になったのか?
グレミオとはどういう関係なのか?
ああ、そうそう、忘れてはいけない。自分を襲ったこの二人組の男は何なのか?
既に自分の中でスラン達が疑問の優先順位の最下位になって入ることに苦笑したシュエリだったが、目の端に動くものを捕らえて緊張が走った。
シュエリの火の紋章で顔半分を焼かれ地面に突っ伏していたもう片方の男が、ゆっくり起き上がったのだ。
「!」
殺意に満ちた・・・というよりも、ひたすら命令に従順なその目は、与えられた任務を遂行するためシュエリを是が非でも連れて帰るという暗い覇気に覆われていた。
男は腰の長剣を抜き放った。
「・・・っ」
思わず息を呑む。
シュエリの様子を見咎めたハクヤは、火傷の男が立ち上がったことに気づき愉快そうに薄く笑むと、
「自分で決着つけな、シュエリ」
と、赤銅の棍を投げてよこした。
思わず手が出て受けとる。片手では威力に負け、両手で支える。
重い。
太く逞しい赤銅の獲物はシュエリの身に余り、振るなどという行為より先に足元がよろめいた。
「ハクヤさん! やめて下さい! 坊ちゃんも!」
叫びと共にグレミオが自分の斧を抜き、庇うようにシュエリの前に立つ。
「グレミオ――忠義は美しいが、過保護はよせ。そいつはもう戦える。俺のいた草原じゃ、男は七つで立派な戦士だ」
「いいえ。坊ちゃんをお守りするのは私の義務であり、誇りです」
毅然として言い返したグレミオの背に、シュエリは静かにたたみかけた。
「グレミオ・・・どいて」
「坊ちゃん・・・」
シュエリは棍を握りしめて、グレミオの前に立った。勝てるか、戦えるか、などということより何より、・・・ハクヤに情けなく思われるのが嫌だった。
――自分のなけなしの体重でも乗せれば、多少は威力が増すだろうか?
覚悟を決めて棍を構えたそのとき、ふわりとその赤銅の相棒が軽くなったように感じた。
「?」
だが、それを疑問に思うまもなく、シュエリの眼前に焼けただれた顔の男が突進してきた。
「!」
とっさに棍を引き上げる。不思議と――いや、かなり不自然な程、その棍はシュエリになじんだ。
棒術をたしなんだことはないが、その知識は体術を学んだときに多少は耳にしていた。叩くでもなく払うでもなく、まずは突く武器なのだと。
シュエリの突き上げた一撃めは易々と避けられたが、シュエリも相手の長剣をかろうじてかわした。間合いが違う。踏み込まれたら終わりだ。
だが、自分のそばを行き過ぎた剣から、酸っぱいような匂いが鼻筋を掠めたのを感じた。
(薬が塗ってある?)
獲物をしびれさせて捕らえる類いのものだろうか。かすりでもしたら厄介だ。
戦いを長引かせるわけにはいかないと、シュエリは第二撃を繰り出したが、慣れない間合いによろめきバランスを崩した。
軸線がずれたシュエリの隙をついて、男が獲物を振り上げる。
「坊ちゃん!!」
グレミオが息を飲んだ。
「――やっ!」
倒れ込んだシュエリは、それでも棍を引き上げながら幼い気合いと共に男の足を力任せに払った。
「うお!?」
よろめいた男の鼻先に、赤銅色の棍があった。逆の先端を石畳に斜めに固定され、後には引かないといった風情で犠牲者を待ち構える剣呑な凶器が。
男は、自分の全体重を乗せ、下顎から棍につっ込んで行った。
ごきょ。
場違いなほど滑稽なくぐもった音と共に顎が砕かれ、男はそのままその場に昏倒した。
「坊ちゃん・・・!!」
グレミオが駆け寄り、シュエリを抱きしめた。
手の中の棍に重さが戻る。
初めて扱った棍の余韻に陶然としながらも、シュエリはしっかりと言葉をつむいだ。
「グレミオ、ごめん・・・」
「いいえ、いいえ、ご無事で何よりでした」
「シュエリ」
まだスランを拷問したままのハクヤが、さも愉快そうに声をかけてきた。
「上出来だ」
うーん、と小首を傾げて、シュエリはハクヤを見た。
「でも・・・ハクヤも。手助けしてくれたでしょ・・・?」
「え?」
グレミオがハクヤを見上げる。
「棍が・・・きゅうに軽くなったから」
シュエリは今自分が握りしめている赤銅の獲物が、先ほどとはうって変わって持つのも辛い重さになったのを感じていた。
「さて、どうだかな?」
聡い少年だ、とハクヤは目を細めた。
赤銅の武具は自分用にあつらえたもの。長さも重さもシュエリの手には余ると承知していた。だから、そう、多少軽くしてやろうと――
ハクヤは左手をかえりみた。役目を終えた風の紋章が、その魔力を静かに収めようとしているところだった。
シュエリの握った棍の周りに、微弱ながら上昇気流を生ませたのだ。
「とりあえず、こいつらは連れ帰って口を割らせるか? シュエリの前で尋問したら、こわーい世話役さんが怒るから」
ハクヤは石畳に情けなく転がっている男二人をつまらなそうに見下ろした。
「当たり前です! ああ、それと! 坊ちゃんのことを呼び捨てになさらないで下さい!!」
「へいへい。とりあえずおたくに厄介になっている間は、俺はしがない雇われ兵だもんな」
「・・・ねえ、あの、どういうこと? ぼくだけカヤの外なんだけど?」
ハクヤとグレミオは互いに眼をあわせた。
「そうですね・・・坊ちゃん。今回のことはグレミオの失態でもあります。お屋敷に帰ったら、一から説明致しますから」
金髪の青年は申し分けなさそうに笑いながら、主たる少年の衣服についた土埃を払った。
−続く−
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