「まだお戻りでない?」
「へえ。きゅうに林檎が食べたくなったとかおっしゃって、市の方へ」
グレッグミンスターで最も異国の者に愛される宿“赤い旅人亭”へやってきたグレミオは落胆した。
彼が重要な用件で会いに来た、当の相手が不在だったのだ。
申し分けなさそうに頭を下げる宿屋の主人に、あなたのせいではないからと、こちらも頭を深々と下げてグレミオは宿を後にした。
市といえばここから東の方向。裏路地を抜けた辺りに広がる、いつも買い出しに行く馴染みの通りだ。
宿で待つとの考えも浮かんだが、彼の目当ての相手は中々に気まぐれらしいので、結局グレミオは市へと向かうことにした。
さて、護衛二人に連れられてマクドール家の坊ちゃんは面白くなさそうに帰路についていた。
どうやって父を説得してこの護衛らを解雇するか。
グレミオを味方につけるにはどうすれば良いか。
赤い服の青年は何者か。
色々と考えをめぐらせるのに忙しかったが、そのせいで周囲の違和感に気づくのがいささか遅れてしまった。
「・・・?」
まさか、と思ったときには遅かった。
帝都の中心にあるマクドール邱に向かう道からそれている。
男二人は、図ったかのように自分の両脇を固めている。
逃げ出そうとしても、すぐに捕らえられてしまうのは目に見えていた。
とっさに振り返る。先ほどの赤い装束の青年がまだいるかも知れない。
しかし、その考えは甘かった。青年は既にどこかへ去ってしまったらしく、この淋しい界隈には自分と男二人しかいなかった。
間違い無い。
このままさらわれる――!
一人で歩くのではなかったと、このときシュエリは初めて危機感を感じた。
(誘拐? それとも父さんの政敵か何かの差し金・・・・・・?)
さらに、不用意に振り返ったせいで、男達もシュエリの様子の変化に気づいたようだった。
「どうなさいました?」
問いつつ、さりげなくシュエリの肩に腕を回す。これで逃れられない。
ひどく慣れた動作に、シュエリはプロを敵にしていると直感した。少なくとも、先ほどのチンピラ達とは格が違う。
落ちて行く朱の陽。
影がその後を追ってゆく。
夕焼けの赤に、もう一度思い出された鳶色の瞳。強く、深く、どこか子供のような眼差しの――赤い装束の青年。
彼がこの場にいたら、さっきみたいに自分を守ってくれるだろうか?
(・・・無理だろうな・・・)
自分のことは自分でしろと彼なら呆れて言うだろう。つい先ほど助けてもらったばかりなのに、なぜかそんな気がした。
シュエリは自分の小さな握りこぶしが汗をはらむのを感じた。
つとめて冷静を装って言葉をつむぐ。
「あなた達、ぼくをどこかへ連れて行く気?」
スランが無表情のまま淡々と答えた。
「――そうですね。少なくとも、このまま館へお帰しするわけには参りません」
「ふうん、そっか。あなた達も働き損だね」
「は?」
シュエリは満足そうな笑みをその顔(かんばせ)に浮かべ、
「残念ながら、ぼくは影武者。本物のシュエリ坊ちゃんは館で武芸の鍛錬の真っ最中だよ」
そんなはずは・・・! と、頬骨のはった方の男がとっさに身を引いた。
「騙されるな、はったりだ!」
スランが制したが、その一瞬戸の機を逃さず、シュエリは男のくるぶしをしたたかに蹴った。
瞬間硬直した彼の脇を小さな体をいかしてすり抜ける。
「追え!」
スランの号令と重なるように、比目魚顔の男がシュエリに向かって突進してきた。
シュエリは何事かつぶやいて印を切り、振り向きざま小さな右手を掲げた。
――ご・・・っ――
シュエリの右手からのびた細く赤い筋が男の顔面を打ちつける。
肉の焼ける匂いがした。
護身用にとテオから持たされた、火の紋章の下位呪文――まだ華奢だが灼熱の衣をまとった赤い蛇は、哀れな犠牲者の顔の右半面を柔らかく愛撫した。
「アアァア・・・!」
悲鳴が響き渡る。
呪文自体の威力は小さいものだが、火の紋章はシュエリ自身の高い魔力を食んで、存分に赤い刃を吐き出した。
男は顔面を押さえて昏倒した。
だが、幼いシュエリにはこの紋章は一度が限度。
予想以上にごっそり魔力が抜け落ちる感覚にとらわれ、シュエリは一瞬足元がよろめいた。
「役立たずが・・・!」
だから、相棒の失態に毒づきながら迫ったスランに抵抗しきれずその場に引き倒され、少年は石畳でしたたかに後頭部を打ちつけた。
「うぁ・・・ッ」
スランは仰向けに倒れたシュエリに馬乗りになると、細く白い首筋に手をかけた。
「・・・・・・!」
「私は小生意気な餓鬼が大嫌いでしてね――頭の良いのはもっと最悪です」
あなたの好みなんか知るもんか、と言い返したかったが、首筋を押さえられては息も出来ない。
「ゥ・・・ァ・・・・・・ッ」
シュエリの細い指先はスランの手首を掻きむしり、幾筋も朱を引いていく。
「上からは殺しても構わないって言われてるんですよ。いっそ、その方が連れて行きやすいでしょうかね」
みしり、と嫌な音がシュエリの脳髄に小さく響いた。
(折られる・・・・・・!?)
恐慌状態はすぐに通り過ぎ、意識が白くなってきた。
手が足が弛緩していく。
痛みが和らぐ。
かすかに体が浮く、その感覚を自覚したそのとき――
酷く懐かしいような温かな声が、耳から意識の端に滑り込んできた。
「――けど、殺しちまったら価値は下がるんだよなあ?」
・・・その台詞はとても温かいとは言えなかったが・・・。
「な・・・?」
スランが振り返るより先に、赤銅色の筋が無造作に斜めに振り下ろされ、鈍い音と共に彼を地べたに沈めた。
ようやく首を解放され、ごほごほとむせ返るシュエリが目の端に捕らえたのは、異国の赤い装束だった。
振り返ったとき、確かにいなかったのに・・・?
「き・・・さま・・・さっき餓鬼と一緒にいた・・・。一体・・・・・・?」
石畳にはいつくばったまま暗い殺意をみなぎらせて睨み上げるスランに、棍使いの青年は愉快そうに視線を返し、
「名乗るなって言われてるんだがな――そこの坊ちゃんの許しがあったら、名乗ってもいいかもれない。なあ?」
そう言って青年はシュエリを伺った。
どういう・・・こと?
まだハッキリとしない意識の底で、それでも溢れてくる疑問の波を払うことができず、もの問いたげな眼差しを少年は青年に返した。
シュエリのその様子を見て取って、若者は軽くせき払いすると、夕暮れの空に高らかと宣言した。
「三日前マクドール家に雇われた、“本物の”シュエリ坊ちゃん付き用心棒でーす」
・・・・・・シュエリの意識が今度こそ本気で白くなった。
−続く−
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