「坊ちゃん。すみません、ちょっと出かけて参ります」
少年の大好きなグレミオは、このところ忙しい。
久方振りに遠征から帰ってきた父テオの世話もあったのだが、それとは別に、ここ三日ほど日中は家を空けている。
「すぐに戻りますから、お屋敷で大人しくしていて下さいね」
「何の用事なの?」
いぶかしむ少年に、忠実な従者が答えて曰く、
「テオ様が大きなお土産を坊ちゃんに持ち帰られたので、その荷解きなんですよ」
わざわざ館の外まで出かけて?
自慢じゃないが、彼の邸宅は赤き帝都グレッグミンスターでも五本の指に入る敷地を誇る。
その家に持ち帰らないで外で荷解きとは、一体どれほどの量の土産なのか。それとも城下で放すには危険な異国の獣でも連れてきたのか。
そもそも、あの偉大ではあるが無骨な父が自分に土産など青天の霹靂で。
じゃあその土産とは一体何なのかと問いただしても、母代わりの青年は意味ありげに笑うだけ。
にわかに興味を覚えた少年はその日、グレミオが出かけたその後をつい尾けてしまったのだ。
シュエリ・マクドール、八歳。
煌めく赤月帝国が誇る六将軍テオ・マクドールの嫡子として生を受けた彼は、幼いながらも気品に満ち、艶はあるが頑固そうな闇色の髪に縁どられた白磁の輪郭と、聡明そうな夜色の瞳が印象的な少年だった。
陽の射し方によっては朱をまとうその眼はときに彼の幼さを忘れさせたが、持前の跳ねっ返りの気質が彼の年齢に相応の輝きを与えていた。
当時、勿論まだテッドはおらず、パーンやクレオとも出会う前で、広い館の管理とシュエリの世話は一手にグレミオが引き受けていた。
実を言うと、グレミオがシュエリの世話役になる前にも何人かマクドール家に奉公に来た者がいたのだが、大人しそうな外見とは裏腹に人の好みの激しい少年の目がねにかなわず、結局長続きしなかったのだ。
ようやくのことでグレミオという逸材を見つけたテオは心底喜んだものだった。
薄い蜂蜜色の髪に整った目鼻立ちは女性らしさすら髣髴とさせたが、何よりその優しい面差しとグレミオ自身の深い包容力にようやく少年は心を開いた。
それからというもの、シュエリは彼によくなつき、彼が縫ってくれた蓬と竜胆色のバンダナはお気に入りとなった。師から学問や武芸を学ぶ時間以外はいつもグレミオの側にいたものだ。
しかし、ただでさえ裕福な背景に生まれ、政敵の多い父を持った彼には予期せぬ事件がよくつきまとった。
金銭目当ての誘拐にあったり、父を狙った刺客とあい見えたこともある。
ある晩グレミオがシュエリのおらぬところで、もう一人護衛がいれば万全なのだがと父に請うていたのを立ち聞きしたこともある。
だから、彼が一人で城下街を歩くのはご法度だった。
重々承知していたのだが――
「マクドール家の坊ちゃんが、共もつけずにお忍びですかぁ?」
大陸随一の治安を誇る帝都にも、陰は潜むもの。
グレミオの後をつけて小道を右へ左へと来たは良かったが、民家が窮屈げに居並ぶ暗い裏路地に差しかかったとき、数名のがらの悪い男達に取り巻かれてしまった。
町人らしいが、昼間から働きもせず良いご身分なことだ。大方こづかいでもせびるつもりだろうが、男に捕まったことよりグレミオを見失いそうなことの方がシュエリにとっては一大事だった。
だが、金を渡して通してもらうことは持前のプライドが許さない。
通せと声をあげるより前に、不意を突いたほうが良いだろう。
シュエリは無言で右手に意識を集中させた。
押し黙ったシュエリに男達が野次を飛ばす。
「どうしたんですかぁ、坊ちゃん? 下々の者にかける声は持たないと?」
「恐がってンだよ。可愛いねえ」
誰がお前達なんか恐がるものかと言いたいのをこらえ、シュエリは口の中で小さく詠唱を終えた。
ほどなく護身用にと父がくれた火の紋章がわずかに熱を帯びる。
指先に魔力がこもる。
あわや少年の右手から灼熱の蛇が鎌首をもたげようとしたそのとき、
「やめときな。お前の炎はそんな三下には勿体ねえよ」
――背後から、覇気のある若い艶を乗せた声が響いた。
「!?」
シュエリと、彼を取り囲んだ男達が同時に振り返った。
・・・旅人だろうか。
異国の赤い装束。手に馴染んだ使い込まれた赤銅の棍。頭上に羽根飾りを頂いて。そこには不遜な面構えをした青年が、薄く笑みを浮かべて立っていた。
「何だてめえ!?」
男達が怒気をはらむ。
「あー、とりあえず名乗るなって雇い主から言われてるもんで。ここは秘密です」
「なんだとォ?」
悪びれない青年の物言いに、男達は神経を逆なでされたようだった。
青年は赤銅の相棒を、コツ、と地面に立て、
「俺も忙しい身でね。今日も宿に来客がある。あまり時間を取りたくねえから――とりあえず一人あたり二秒プレゼント。はい、とっとと逃げるか、俺とヤるか決めちゃって」
「何、ふざけたこと言ってやがる!」
男達はいきりたって、異国の若者に突進した。
赤い装束の若者は、ふう、と小さくため息をつくと、
「初めて訪れた都だってのに、敵に恵まれない俺って幸せ」
のんきな軽口を言い終わらないうちに、赤銅の筋が斜めに走った。鈍い音がひとつ。
真っ先に若者の懐に到達した男がもんどりうって倒れる。逆足を引く。相棒を水平に引き戻す。重なるようにふたつめの音。
二人めは鼻頭を砕かれた。掠れた悲鳴。みっつめの音はそれにかき消され聞こえなかったが、すぐに三人目が路地の石畳に沈むのが見えた。
若者が体を引いて初めて、男が突かれたのだと分かった。
「・・・・・・っ」
シュエリは思わず息を飲む。
実際に戦場で戦う父を見たことはないが、戦いの覇気とはこれを言うのか。
洗練された、それでいて荒々しい美しさのある棍の雄叫びを目の当たりにして、思わず芯が震える。
――なんと、格好が良いことか・・・・・・。
武術の鍛錬にさほど熱心で無かったシュエリはまだ自分の主とする武器を決めていなかったが、にわかに棍術に惹かれてしまうほどに。
物足りない敵を苦も無く屠ると、青年は赤銅の獲物を軽く払って肩に収め、シュエリの方に向き直った。
ちんぴらどもを相手にしていたときとはうって変わって、温かな包容力に満ちた鳶色の眼差しがひどく印象的だった。
「とりあえず――」
青年は屈託なく、ニッと笑うと
「独り歩きのお仕置きだな」
ごすっ、と草色のバンダナのまかれたシュエリの頭をげんこつで殴った。
「いたぁっ!」
予想していなかった青年の反応に、思わずシュエリは頭を押さえると
「何するんだ! 誰も助けてくれなんて――」
言い終わらないうちに青年の右手がシュエリの鼻先にのびてきて、彼の白い鼻を力任せにぐりぐりとつまむ。
「いたたたた!」
「俺は跳ねっ返りは好きだがな、それは好いた女に限るんだよ」
どういう理屈だ、と言い返したかったが、鼻を押さえられてうまく言葉にならない。
「お召し物から良家の坊ちゃんとご推察申し上げますが、共もつけずに歩いて宜しいので?」
「・・・・・・っ」
ようやく解放された鼻を押さえながら、シュエリは青年をかえりみた。
全てを見透かすような深い琥珀の視線を正面から受けて、シュエリの心が軋んだ。世話役の言いつけも守らず、身勝手なことをしている自分に思い当たったのだ。
「・・・ぼくが不注意だったことは認めるけど・・・」
だが、それはそれ。すぐに持前の負けん気がシュエリを支配する。
「でも、あなたに非難されるいわれは無いよ」
きつい視線を返すと中々に綺麗な顔だちになるシュエリを見て、若者は少し眼を細めた。
「・・・ま、そうだな。今はまだ」
「・・・・・・え?」
若者の真意を汲み取れず問いただそうとしたシュエリだったが、遠くから
「シュエリ様」
と呼ぶ声が届き、そちらに気を取られてしまった。
声の方を見返ると、黒革の甲冑に身を包んだ戦士ふうの男二人がこちらに走ってくるのが見えた。
「お探し申し上げました、シュエリ様」
見たことのない顔だ。
片方は細身で、少しつり上がったような目尻の男。どこか狐を思わせる風情。そして、いま一人は中肉中背、頬骨のはった比目魚(ひらめ)のような顔をしていた。
貴族階級らしいが、身なりと口調から察するに身分は明らかに自分より下。敬語は必要ない。何より、その不自然な慇懃無礼さが、妙にシュエリの癇に障った。
「だれ? 名乗りもしないで、ぼくの名を呼ぶのは少し気に障るんだけど」
気に入らない相手に対しては容赦しない。この辺りがテオの手を焼かせた、幼いシュエリの「人間の好みが激しい」性癖である。
「失礼しました。私はスランと申します。テオ様からお話は届いていませんでしたか? 新しく貴方様の世話役に雇われた者ですが」
「・・・!」
なんだって?
グレミオが以前から、もう一人くらい護衛が欲しいと言っていたのは知っていたが、こんな唐突に!?
いや、待てよ。
――まさか、彼が言っていた“テオのお土産”とはもしや、このことなのか?
「お一人で歩かれるなどとんでもない。さ、我々がお屋敷までお連れ致します。・・・まったく、こんなどこの誰とも知れぬ旅人に気安く声をかけられるとは――」
と、狐顔の男は、赤い装束の青年を蔑むようにチラリと横目で見た。
冗談じゃない。
自分の護衛くらい、自分で選びたい。面通しもなく、いきなり護衛ですと言われたところで納得なぞ出来るものではない。
それに、今ひとつ気に障ること。
シュエリは旅の青年をかえりみて、きっぱりと言い放った。
「この人はぼくを危険から救ってくれた恩人だ。世話役といいながら、ぼくの大事に駆けつけられなかったあなた達とは違う。侮辱は許さない」
いささか勝手な言い草だが、痛烈な皮肉。
棍使いの青年に心を許したというより、二人の新しい護衛への反発から出た台詞だろうが、赤い装束の若者は苦笑しながらも楽しそうだった。
当の護衛二人は無言でシュエリの怒りをやり過ごしたのだが。
シュエリはとりあえず、ひとまず急いで帰宅して父に抗議するのが妥当だと思い当たった。
「今日はこれで帰るけれど、あなた達の世話になるかどうかは別の話だからね」
幼いながらに中々刺のある視線を戦士達に返し、シュエリはすたすたと先頭に立って歩き出した。
不意に思い出して、振り返る。
赤い装束の青年は肩ごしのシュエリの視線に対し、裏路地の出口で軽く手をあげて、こちらを見送ってくれていた。
――ご苦労さん。
とでも言いたげな、少し自分を気遣うような青年の眼差しに、シュエリは怒りが少し収まるのを感じていた。
そういえば。
いきなりあの青年には頭を殴られたのに、腹が立たなかった。
これが、今自分に連れ立って歩いてる“狐”と“比目魚”であったなら、速攻で火の紋章が刃を剥いていたかもしれない。
不思議な出会いもあるものだ・・・。
このまま別れてしまうのは何となく淋しい気がした。父に抗議したその後で、グレミオに青年のことを話そう。きっと喜んで聞いてくれるはずだ。
名前を聞いておけばよかったと、今になって思い当たり少し後悔した。
二人の黒い戦士に囲まれて去って行くシュエリを見送った後、赤い装束の青年は形の良い手を顎にやる。
「――あれがシュエリ坊ちゃんね。なるほど、草色のバンダナがよく似あってる」
そこで少年のような仕草で小首を傾げ小さくつぶやいた。
「しかし、俺の得た情報じゃ、あの子の新しい護衛は一人のはずなんだがな?」
少しの間、何事か考えていた青年は、長年付き添った赤銅の相棒に発破をかけるよう軽く持ちなおすと、一度狭い路地に身を隠した。
そして、不遜だがどこかワクワクしたような笑みを浮かべ、去って行くシュエリ達の後を慣れた様子で尾け始めた。楽しげに口笛など吹かないよう注意しながら。
・・・今日、自分の泊まっている宿に来るといっていた客人の件は、忘れたことにしようと思いつつ。
−続く−
|