‡ 灰色の天秤 ‡

2・黒と赫と









  初めてのルーレット台は魔法陣のように見えた。
  多くの者がこの黒と赤の盤上で、まさにボールのように人生を転がしたのである。
  ディーラーとギャラリーとで出来た人だかりの中、その勝負は始まった。


「どのような勝負になさいますか」
  形だけは丁寧に、ゲル男爵は問いかけた。
「僕のチップはこの身ひとつ。コインのように分けることは出来ませんから、一本勝負で結構ですよ」
「アレン…!」
  にこやかに答えた少年に、たまらずルーレット台を仕切るディーラーが声を上げた。勝負を見守っていた客達も息をのんだ。
「お…おい…アレンの奴、大丈夫か」
「ああ…今夜は様子が変だぜ…。元々、勝負を急ぐタイプじゃないだろうに」


「これはこれは、強気な坊ちゃんだ」
  品良く笑おうとしても育ちが出る。
  今まさに自分の手中に獲物が転がり落ちんとする期待に胸が膨らむ。
  ゲル男爵は、襟元から覗くアレンの白い首筋を見つめ、ふしゅふしゅと喉の奥でため息を漏らした。
「それでは…ノワール(黒)かルージュ(赤)。即決でいかがです? 坊やの勇気に免じて、先にカラーを選ぶ権利を差し上げましょう」
「ご厚意、感謝します」


  ルーレットのディーラーは、しめた、と思った。
  アレンとはこの一ヶ月に顔なじみとなっており、多少の世間話もした。ディーラーにはそれぞれクセがあり、ベテランになればなるほど狙った位置にボールを落とせる。自分が得意なのは、黒の16番だと漏らしたことがある。ディーラーとしては御法度だが、アレンはカードしかプレイしないと言うことをふまえての贔屓だった。
  それってイカサマなんですか? と無邪気に尋ねたアレンにディーラーは、
「カジノのテクニックというやつさ。大切なものを守るためのね」
「大切…売上ですか?」
「まあ、イロイロかな」
  大人の世界は難しいなあ…と、きょとんとした表情で呟いたアレンを今でもはっきり覚えている。
(黒だと言え、アレン。確実に16番に落としてやる──)
  祈るような想いで、ディーラーはアレンを見つめた。
  アレンは一呼吸すると、


「ルージュで。…僕の、瞳の色です」


  一瞬、空気が凍った。
  ディーラーは胸の中で舌打ちした。赤に落とす自信はない…!


「では、私めは黒で。ルーレットに銀色が存在するならば、坊やの髪に捧げると──洒落たことが言えたのですがね」
  カジノに不似合いな祈りが満ちた。己の欲望が正義の賭博場で、目の前の不憫な少年に幸あれと、無償の願いが紡がれた。


  ディーラーは覚悟を決めた。
  少年と、男爵と、ギャラリー達の思惑を乗せてルーレットがまわる。
  ディーラーの手から放たれたボールは、人間を嘲笑うかのように軽やかに回転盤を駆け回り、徐々に速度をゆるめ、吸い寄せられるようにある一画で動きを止めた。

「ノワールの…13番……!」

  黒の13。出来すぎた結末にカジノ全体が小さく震えた。
「私めの勝ちですね。それでは坊や…アレンといいましたか。私と共に来て頂きましょう」
  無表情でうなずいた少年は、ゆっくりと立ち上がり、男爵の後に続いた。
「おい! 誰か! アレンの師匠とやらを呼んでこい! このままじゃ…!」
  いたたまれなくなって、ルーレットのディーラーが叫んだ。
  彼に言われずとも、カジノの誰もがそう思った。
  しかし、アレンの素性は分からない。彼が言うところの師匠など、実在するのかどうかも定かではない。


  緊張した面持ちで男爵の後を追うように去っていったアレンを、ただ言葉もなく見守るしか無かったのである。
  ──ただ一人、カジノの片隅で悠々と煙草をくゆらせている青年以外は。











  天を見上げれば、よどんだ闇が月を隠す。
  ゲル男爵は、明かりのない寂れた通りを、不自由なく歩いていた。町から離れ、うっそうと茂る木々が夜へと誘うように葉を揺らした。
  静かに男爵の後ろを歩いていたアレンは、周囲に人通りが無くなったのを見計らって声をかけた。
「…この辺でいいでしょう。夜目の利く男爵さん。やっと貴方と二人きりになれました」


  ふしゅしゅ…という奇妙なため息が、夜気に乗ってアレンの耳元へ届いた。
「どうしました、坊や。夜道が怖くなりましたか。それとも…もう我慢できない程に……私に喰べて欲しくなりましたか……?」
  振り返った男爵の顔は、既に人間のそれではなかった。
  黒ずんだ血が充満した眼、まがまがしく歪んだ口元は大きく裂け、生臭い息づかいが見て取れるかのように、湿った唾液の音が漏れ聞こえた。


「あいにく、暗いのも痛いのも大嫌いなんです。師匠が、いつも折檻するもので」
  少年が左手を水平にあげた。
  めきり、と裂けたような音がした。
  微かな痛みに耐えるように、アレンは両目をきつく伏せた。
  ごき、ごき、ごき、細胞が何かを組み換える。
  それは奇妙に膨れあがり、鱗のような皮膚が現れる。

  変貌を遂げたアレンの左腕は、まさに死神のカギ爪。
  夜の湖のような──澄んだ邪気が彼を包むと、少年は羽化するように静かに左眼を開いた。
  冥い深紅の宝石が禍々しく、男爵と、そこに宿る何かを映し出していた。


「ゲル男爵──いいえ、シュテルム・エル・カリスケル男爵。僭越ながら、貴方の魂を救済します…!」


「……坊や…どうして、我が名を……」
  男爵が驚愕に顔を歪ませた。
「師匠との調査で全て分かっています。30年ほど前、貴方は実のお兄さんに殺されてアクマになりましたね」
  左の眼に憤怒を、右の眼に慈愛を──。
「殺された貴方の魂は、殺したお兄さんに宿った。姿は兄、魂は弟、そして、本質はアクマ──。それが今の貴方の姿です」


  少年は神の彫刻のように、厳かに咎人(とがびと)を断罪する。
  男爵は気圧されつつも、闇より濁った視線でアレンを睨み付けた。
  自分の素性を知る不審な少年をこのままにしておく訳には行かない。勿体ないが、すぐに殺してしまう方がいいだろう──。
  男爵が奇妙に伸びた爪でアレンの心臓に狙いをつけたとき、月が、けだるそうに顔を覗かせた。

  少年は月光を受けて水晶のように煌めく髪を夜風になびかせた。
  男爵が目を見開いた。
「普通は、愛する者の死を受け入れられずにアクマにするのに。なぜ、こんな事件が起きたのですか」
  思った以上に似ている。
  大好きな、兄に──。
 


「兄を侮辱することは許しません……兄は…兄は私を傷つけたりなどしていない!」
「え…」
  男爵が肩をふるわせた。
  黒い大地を睨んで、かすれた声を絞り出す。
  アレンが、カジノで聞いた余裕のある声色とはうってかわって、捨てられた老人のような風情を臭わせた。
「私が兄に……殺してくれと頼んだのです…!」
「!?」
  男爵の告白に、アレンは息をのんだ。
  男爵が顔を上げる。懐かしいものを見るような、寂しげな眼差しでアレンを見つめた。


「私はね、幼い頃から病弱で…11歳以上には生きられないと医師に宣告されておりました」
  ざわり、と月が翳る。
「死ぬのは勿論怖かった。でも、それよりも、兄と離ればなれになるのが恐ろしかった──」
  どす黒い雫が落ちた。
  アレンが、それが男爵の涙だと気づくのに、少しの時間を要した。
「兄は、美しい人でした。丁度、貴方と同じく綺麗な銀髪をしていました。幼い私の誇りであり…羨望の的でした」
  男爵はアレンの中に、かつての兄の面影を見出していた。
「兄が13歳、私が11歳になったときです。医師の宣告通り、私の容態は急変し、否応なく死を認識せざるを得なくなりました。兄は私の枕元で、止めどなく涙を流しながら私を励ましてくれました」


  そんなとき……彼が現れたのです。
  千年伯爵と名乗りました。

「お兄さンと、ずっト一緒に、いさせてアげますヨ♪」


  兄が私を殺せば──私は、兄の中で永遠に生きられると、千年伯爵は言ったのです。
  ……迷いはありませんでした。
  私は、兄に懐剣を渡し、心臓を突いてもらったのです。


「でも──私は兄の中で蘇ったのに、兄の存在はどこにもなかった。私の魂は確かに有るのに、兄は、どこにも……」
  せめて、姿だけでもと思い、私は鏡を見ました。
  私は美しかった兄の姿をしているはずなのに。
  鏡に映った私は──アクマになった衝撃からか、それとも千年伯爵の企みのせいか、このような老いさらばえた姿になっていました……。


  満たされない私は、いつしか、兄と似た容姿の者を襲うようになりました。
  幼い私の目に、最も美しく映った、13歳の兄と似た銀髪の少年を──。



「シュテルム・エル・カリスケル男爵…」
  アレンの右の瞳が揺れた。
「……力不足でごめんなさい。僕には、貴方の気持ちが分からない」
  神父の卵は幼すぎて。
「師匠なら…師匠なら、貴方の悩みが分かったかも知れない。でも…僕には兄弟がいないし…家族も育ての父だけで…、誰かを愛するということもまだよく分からないんです」
  左の瞳が震えた。涙は…出なかった。
「そんな僕が、貴方を救済することになって、本当にごめんなさい……」


 男爵が小さく嗚咽を漏らす。
「いいえ。エクソシストが坊やで、私めは幸せです。今まで逢ったどの少年よりも、坊やは兄に似ている。よく、ふざけてルーレットをしたものです。兄は、赤に賭けることが多かった──」
「男爵……」
  目の前のアクマは、小さな、小さな、羊のようだった。
「私は、大好きな兄に、二度も殺してもらえるのですね」
  アレンは、華奢な体躯には似合わない無骨な左腕を持ち上げ、男爵の方へ無造作に伸ばした。


  次の瞬間、男爵の背中から巨大な深紅のカギ爪が生えた。
  カギ爪の甲には、黒真珠のような冴え冴えとした十字架が埋め込まれていた。
  躰の支えを失った男爵が前のめりにアレンに倒れかかる。
  不器用に刺し貫いた腕を曲げると、丁度、アレンは男爵を抱き留めるような姿勢になった。


「兄に、抱きしめられているような、感じが、します……」


  崩れ落ち、灰となっていく男爵の体が、アレンの腕からこぼれ落ちていった。
「………祈りを」
  男爵の亡骸と、そこに宿る何かに、一礼をする。


  アレンはしばらくの間、深々と下げた頭を上げることが出来なかった。







                                      −続く−





  ああ…申し訳ごじゃいません…。
  本命カップル(ここでは師アレ)以外に同性愛要素を入れるのはあまり好みではないんですが(^^;、今後アレンたんには師アレとかラビアレに目覚めて頂きたいので、あーこういうコトもあるのかーと、思春期中に刷り込みされてほしたかったのです(ひぃ)。

†はいいろのてんびん・くろとあかと

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