初めてのルーレット台は魔法陣のように見えた。
多くの者がこの黒と赤の盤上で、まさにボールのように人生を転がしたのである。
ディーラーとギャラリーとで出来た人だかりの中、その勝負は始まった。
「どのような勝負になさいますか」
形だけは丁寧に、ゲル男爵は問いかけた。
「僕のチップはこの身ひとつ。コインのように分けることは出来ませんから、一本勝負で結構ですよ」
「アレン…!」
にこやかに答えた少年に、たまらずルーレット台を仕切るディーラーが声を上げた。勝負を見守っていた客達も息をのんだ。
「お…おい…アレンの奴、大丈夫か」
「ああ…今夜は様子が変だぜ…。元々、勝負を急ぐタイプじゃないだろうに」
「これはこれは、強気な坊ちゃんだ」
品良く笑おうとしても育ちが出る。
今まさに自分の手中に獲物が転がり落ちんとする期待に胸が膨らむ。
ゲル男爵は、襟元から覗くアレンの白い首筋を見つめ、ふしゅふしゅと喉の奥でため息を漏らした。
「それでは…ノワール(黒)かルージュ(赤)。即決でいかがです? 坊やの勇気に免じて、先にカラーを選ぶ権利を差し上げましょう」
「ご厚意、感謝します」
ルーレットのディーラーは、しめた、と思った。
アレンとはこの一ヶ月に顔なじみとなっており、多少の世間話もした。ディーラーにはそれぞれクセがあり、ベテランになればなるほど狙った位置にボールを落とせる。自分が得意なのは、黒の16番だと漏らしたことがある。ディーラーとしては御法度だが、アレンはカードしかプレイしないと言うことをふまえての贔屓だった。
それってイカサマなんですか? と無邪気に尋ねたアレンにディーラーは、
「カジノのテクニックというやつさ。大切なものを守るためのね」
「大切…売上ですか?」
「まあ、イロイロかな」
大人の世界は難しいなあ…と、きょとんとした表情で呟いたアレンを今でもはっきり覚えている。
(黒だと言え、アレン。確実に16番に落としてやる──)
祈るような想いで、ディーラーはアレンを見つめた。
アレンは一呼吸すると、
「ルージュで。…僕の、瞳の色です」
一瞬、空気が凍った。
ディーラーは胸の中で舌打ちした。赤に落とす自信はない…!
「では、私めは黒で。ルーレットに銀色が存在するならば、坊やの髪に捧げると──洒落たことが言えたのですがね」
カジノに不似合いな祈りが満ちた。己の欲望が正義の賭博場で、目の前の不憫な少年に幸あれと、無償の願いが紡がれた。
ディーラーは覚悟を決めた。
少年と、男爵と、ギャラリー達の思惑を乗せてルーレットがまわる。
ディーラーの手から放たれたボールは、人間を嘲笑うかのように軽やかに回転盤を駆け回り、徐々に速度をゆるめ、吸い寄せられるようにある一画で動きを止めた。
「ノワールの…13番……!」
黒の13。出来すぎた結末にカジノ全体が小さく震えた。
「私めの勝ちですね。それでは坊や…アレンといいましたか。私と共に来て頂きましょう」
無表情でうなずいた少年は、ゆっくりと立ち上がり、男爵の後に続いた。
「おい! 誰か! アレンの師匠とやらを呼んでこい! このままじゃ…!」
いたたまれなくなって、ルーレットのディーラーが叫んだ。
彼に言われずとも、カジノの誰もがそう思った。
しかし、アレンの素性は分からない。彼が言うところの師匠など、実在するのかどうかも定かではない。
緊張した面持ちで男爵の後を追うように去っていったアレンを、ただ言葉もなく見守るしか無かったのである。
──ただ一人、カジノの片隅で悠々と煙草をくゆらせている青年以外は。
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