「ありがとうございました!」
天は青く雲は白く、日差しは穏やかに大気に憩いをもたらす昼下がり。
ハクヤと出会ってからシュエリは武芸に熱心になり、父テオを喜ばせた。
彼専用にあつらえた黒作りの棍もほどよく手に馴染んできて、シュエリは上機嫌だった。
そんな訳で、今日も今日とて師匠のカイに教えを請うていたのだが、急用のため師は早々に鍛錬を終え家路についてしまった。
大きな声で礼を言って師を見送ったシュエリは、思いもかけず出来てしまった暇な時間を無駄にしたくないと、このところ非常に気にかかる新しい護衛の下に馳せ参じた。
彼は、天気のよい日は、たいてい日向ぼっこしている。遠い西方の空を思い出して良いと言っていた。
で、どこでしているのかというと――
「んしょ・・・」
小さな体を精一杯のばして、シュエリは天窓から這い出した。
マクドール邱の屋根の上。
彼の大好きな西からの旅人は、いつもここで昼寝しているのだ。
「なんとかは高いところが好きなんですねえ」と、大切な坊ちゃんを取られ気味のグレミオが珍しく嫌味など言ったものだ。
シュエリ八歳。テッドは勿論、パーンやクレオもいなかった当時、この大きな館で彼の世話をするのはグレミオだけだった。
彼が母代わりであるなら、ハクヤはまるで兄のようで、どこか子供のような感性を持つ彼は、同い年の友人の少ないシュエリを喜ばせた。
「ハクヤ・・・?」
屋根の上で視線を一巡り。
屋根の頂上の向こう側から、ひょこ、と形の良い逞しい手首が現れ、シュエリに向かって二、三度振られた。
「ハクヤ!」
足を滑らせないように気をつけながら、シュエリは目指す青年の元へ急いだ。
ハクヤは屋根に寝転がって遠い天を眺めていた。
シュエリがとことことやってくると、彼は寝たまま視線を小さな主人に向け、
「なんだ? 今日の鍛錬はもう終わったのか?」
「うん――なんかお母さんが病気で倒れちゃったんだって。大事は無いらしいけど、念のために早く帰るって」
「そうか。早く元気になってくれるといいな」
「うん・・・ね、ぼく、カイ師匠のことは大好きなんだけど、あ、おっかないから時々キライだけど・・・」
シュエリはハクヤの側に座りながら、伺うように彼を見た。
「・・・棍はハクヤに習いたかったな」
「そう言ってもらえるのは嬉しいがな、人にものを教えるのは苦手でね」
「うん、父さんにもそう言ってたもんね・・・」
師と仰ぐのはハクヤが良いとねだるシュエリを説き伏せ、父はカイを推薦したのだった。
「それに、俺のは我流だからな。学ぶには向いてない」
テオもカイも同じ指摘をした。ハクヤの棍術は神技の域にも達する実戦向きのものだったが、いかんせん我流の要素が強かったため秩序立てて覚えるには不向きであった。
ハクヤと同じ型を身につけることもできるが、それには酷く時間が必要だという。
ハクヤ自身、一所に留まる気はなく、旅立つに不自由でない路銀さえたまればいつでもマクドール家を後にするつもりでいたし、シュエリが一から棍術を学ぶのなら基本を踏まえたほうが良かろうと、師としての経験も豊富なカイが選ばれたのである。
シュエリは少し遠慮がちにハクヤの隣でころんと横になると、
「でもさ、約束してくれたよね? 強くなったら手合わせしてくれるって」
「あ? ――まあな」
「なんだよ、その気のない返事はっ」
ぽかり、とハクヤの頭を軽くこぶしで殴る。
「お、やったな?」
ハクヤは軽やかに身を起こすと、寝転がったばかりのシュエリの上に覆いかぶさってはがい締めにした。
「わっ、は、放してよーっ」
「ほーら、逃げられるもんなら逃げてみな」
シュエリは手足をバタバタとさせるが、いかんせん八歳の少年とは体格も力も全然違う。しっかりと組みつかれたハクヤの腕は、微塵も払いのけることは出来なかった。
「はは、ちっちゃいなー、お前」
「うーうーっ」
しばらくじたばたともがいていたが、やがて自分を抱きしめるハクヤの温もりと、その日なたの匂いを感じて、何だか兄か父に抱かれているような錯覚を覚え、シュエリは思わず目を閉じてしまった・・・。
「・・・シュエリ?」
きゅうに静かになった少年を不審に思い、ハクヤは彼の顔をのぞき込んだ。
あどけない顔に何やら酷く安心したような表情を浮かべて瞼を閉じている。
何となく手のやり場に困ったハクヤだったが、持前の保護本能を刺激されたのか、今度は柔らかくシュエリを抱きしめてやった。
「はくや・・・・・・」
「おう」
うっとりと目を伏せたままのシュエリ。
抱き返すでもなく、すがりつくでもなく、ただハクヤの温かな腕の中を堪能するだけで精一杯で。
「ずっと、ココにいてよ・・・」
まるで告白のようだと苦笑しながら、ハクヤは草色のバンダナがまかれたシュエリの頭をぽんと叩くと、
「・・・男は一人で生きて行くもんだぜ」
「うん・・・でも・・・」
消え入りそうな声で再度ねだろうとしたシュエリを、ハクヤは柔らかく、強く、包むようにもう一度抱きよせた・・・・・・。
その頃。干し物を終えたグレミオが庭先を通りかかり、何気なく伸びをして目にしたもの。
――マクドール邱の屋根の上で大切な坊ちゃんを押し倒して、はがい締めにしたまま動かないハクヤさんの姿。
「ぼ、坊ちゃん――!?」
地上から自分達の名を呼ぶグレミオの大声に、いきなり我に返った二人は慌てて起き上がった。
が、そのせいでバランスを崩し、あわや屋根から転がり落ちそうになる。
「坊ちゃん!!」
グレミオの蒼白な悲鳴が響く。
シュエリを抱きしめ、とっさに屋根の縁に捉まったハクヤのおかげで転落は免れたが、二人はその後こってりとグレミオの説教を聞く羽目になったのだった。
――それから1か月。
ハクヤがマクドール邱を去った後も、シュエリはときおり屋根に上りグレミオを困らせた。
屋根の上に寝転んで高い天を仰ぐと、遠い異国の青年を思い出すことができる。
数年後、トラン解放戦争の真っただ中でハクヤと再会するまで、シュエリのこの癖はなりを潜めなかったらしい。
−了−
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