「オババは女を口説いたことはあるか?」
若者の突然の無粋に、半ば呆れつつシエラは返した。
「淑女にぶしつけな問いかけを贈るのが草原の礼儀かえ?」
「そうは言っても俺より現役時代の長い奴って、オババしか思いつかなくてね」
久しぶりの再会というのに、相手の不遜な態度は治らないものだと、二人が同時に思いながら杯を交わしたのは間違い無い。
トラン湖にほど近い、小さな村の粗末な酒場である。
互いに真の紋章を持つという二人の希有な旅人は、まれに遭遇した。もしかすると、紋章同士が引き合っていたのかもしれないが――。
吸血鬼達が集うという刻を忘れた村――『蒼き月の村』。
シエラはここの長老であり、銀月のごとき清楚な少女の容姿とは裏腹に、「真の月の紋章」で始祖となった齢(よわい)千という女傑。ネクロードという不埒者がその紋章を盗み出してから、かの者の足跡を追う因縁の旅を続け、15年ほど前に時の同盟軍の助けを借り、ようやく取り戻した。
片やハクヤは西方グラスランドで勇名を馳せた盗賊団"炎の運び手"の元統領であり、年老いた者には"炎の英雄"の畏称で親しまれる豪傑だったが、ハルモニア神聖国と一戦交え、これを退けた後、姿を消した。そして、50年を経た後、二人めの"炎の英雄"に手を貸して仮面の魔術師を撃退した後、異国の英雄と連れだって旅に出た。
性別こそ違えど、二人の未曾有の宿命を負った者らは今、・・・まあ、隠居がてらの気ままな放浪の旅を続けているのである。
「今宵は、旅の道連れの姿が見えぬが?」
強い酒に顔色も変えず、興味無さ気にシエラは尋ねた。
「ああ、シュエリの奴は久しぶりの故郷だってんで、一人で色々回って来るとさ」
お預けを食らった仔犬のような表情を隠しもせず、おおげさに口をとがらせてハクヤは応じた。
「ま、人間、一人の時間も必要だしな。俺が立ち入る訳には行かねえし」
青年の自分に言い聞かせるかのような口ぶりに、探るように少女は目を細めた。
「珍しいの。餓鬼大将がそのまま大人になったようなおんしに、我慢を喚起する存在があるとは」
初めて、吸血鬼の始祖は面白そうに笑んだ。
一見、何の繋がりも無さ気な二人がなぜ懇意にしているかというと――
当時、まだ名もない盗賊団を率いていたハクヤは、とにかくグラスランドを買い戻す財力の足しになればという建前と、持前の盗賊としての好奇心がもたげたという本音に従い、仲間の制止を振り切って単身、宝が眠るという蒼き月の村へと赴いた。
その宝とは、(後で分かったことだが)勿論「真の月の紋章」であり、ハクヤはめぼしい手がかりを求めて村を嗅ぎ回り――結果、シエラにこっぴどくお仕置きをされて以来の腐れ縁であった。後の天下の炎の英雄も、千年生きた妖怪オババには敵わなかったのである。
まあ、弱点の一つくらい英雄にとっては愛敬さ、と当のハクヤ自身は飄々としたものだったが。
で。ハクヤの言うシエラの現役時代とは、真の紋章を持ち得た期間というよりも、まさに――
「言うておくが、妾(わらわ)は男の方が好みじゃ。同性を愛でる同胞(はらから)もおらぬではないがな」
恋多き期間、という奴である。
月光に晒されると紫水晶にも見える銀色の髪をわずかに揺らし、シエラは自らの杯に蠱惑的に満ちるラム酒に唇を滑らせた。
「さらに付け加えるならば」
「『おんしは、妾の好みではない』」
ハクヤは、目の前の始祖を真似て返した。
「よう分かっておるではないか」
「耳にイカが出来るほど聞かされましたから」
と、ハクヤは残りの馬乳酒を煽り、どかりと椅子の背にもたれ込んだ。
「イカ?」
「タコより足が多いんで」
くだらん洒落を・・・と呆れて目を細めたシエラだったが、フムと一人納得すると無粋な盗賊に切り替えした。
「おんし、同性に惚れたのかえ?」
図星をつかれ、何と答えたものか戸惑っていると、シエラは酒場の窓から外を見やった。月の薄明かりに淡く照らされたトラン湖上に、堅固な城が白くそびえ立っている。
「・・・まあね」
乙女というものは、この手の話が好きな人種である。シエラも――千年生きてなお、その好奇心が疼く若さを持っていた。
先程までの眠そうな顔はどこへやら、途端に生き生きと小悪魔のように蒼銀の瞳を輝かせ、相手は誰ぞと尋ねてくる。
「自慢の乙女のカンとやらで当ててみろよ」
シエラは外見通りの若い娘のような仕草で思慮深げに小首を傾げると、窓の外の白く鈍く輝く砦を視線の先に捕らえ、
「かの城の、かつての軍主殿であろ」
「・・・げ」
思わず立ち上がって、何で分かったんだとか、いやまあそりゃ一緒に旅してるから想像できるかとか、待て待てハッキリ分かるほど俺は下心まる出しでシュエリのそばにいるように見えるのかとか、ハクヤの身を取り巻いた焦りの嵐に翻弄されつつシエラを見やると、
「愛しい相手の気持ちも分からぬのか?」
と、妙な謎かけが返された。
「・・・あいつは俺を、人生の先輩みたいなものとかしか思ってねえさ」
実際、頑に意地を張るシュエリの瞳には、紛れもない自分への憧れの光が宿っていたが、それが何を意味するものか――単に武術に長じた者への憧憬なのか、真の紋章を扱い慣れている宿星への嫉妬なのか、ハクヤには分からなかった。
これで相手が女であれば、有無を言わさず押し倒し肌をあわせていたかも知れない。
ハクヤは真の火の紋章を宿すまでもなく、恋多き時代を長く満喫してきたし、さらには最高の伴侶すら手に入れ彼女が死ぬまでの間、全力で愛情を注いだのだ。
体の繋がりだけでなく、心達も・・・そちらの経験は豊富であった。
そう。・・・相手が男でさえなければ。
「なるほどのう。天下の炎の英雄も他愛ないものじゃ」
「・・・あんたから見れば、誰だって可愛かろうよ」
「そうではない――悩まずともよいことを悩んでおるから、初いと言うておるのじゃ」
素面(しらふ)じゃやってられん、とばかりにハクヤはぶっきらぼうに追加の酒を店主に頼んだ。
すぐに出された新たなそれの半分ほどを一気に飲んで、
「さっきから分からないことだらけなんだが」
と、参ったようにハクヤは卓に片ひじをつき上目づかいにシエラを見上げた。
ときに、非常に少年くさい仕草や態度をするハクヤは、百戦錬磨の炎の英雄としては相応しくないほどに――実は、女の母性をくすぐることがある。
はた目には仲のよい・・・少し頼り無さ気な兄と、しっかり者の妹のように見えたであろう。
「なんであんたは、俺の惚れた相手がシュエリだと悟った? それに、どうして俺は悩まなくてもいい?」
悪戯っぽく笑って、シエラは右手をかざした。
「真の月の紋章?」
「さよう。実をいえば妾はシュエリと特別親しい訳では無い。じゃが、その右手に"死神"を宿しておることは知っておる」
素直に先を促すハクヤ。
「妾は月の紋章の主になってから幾百という年月を経てな、この紋章の囁きが、おんしらよりは分かるようになった。そして、かの者の持つ『生と死を司る紋章』は、我が月の紋章と同じく陰の拳族の一部――闇の相を持つ」
真の紋章と言うものは互いに引かれあうのだが、それが同族となるとさらにその力が強くなる。紋章を通じて漠然とではあるが、相手の想いや気といったものを感じ取ることが出来るのだとシエラは言う。
「・・・そうか? 俺には分からん」
ハクヤは己の右手に宿した真の火の紋章に、逞しい左手の平を被せ意識を集中させてみた。
「ごく微弱なものじゃからな。それに、おんしの紋章では相が異なる。火は・・・そうさな、まだ五行同士では近いかもしれぬが」
「まあいい。分からないものは仕方ない。で?」
「そう急かすな」
シエラは、品良く四杯目の果実酒を注文して、先を続けた。
ほどなく、店主が紅玉の雫で満たされた小杯を持って来た。
「その前に、おんしの悩みを聞かせてもらおうかの」
「・・・おい。分かってたんじゃねえのか」
少女の姿からは想像を許されぬ大人びた風情でシエラは、ほほ、と笑い、
「おんしの口から聞いてみたいのう」
「・・・・・・・・・」
思わず押し黙ったハクヤを横目に見た後、シエラはまぶたを閉じて、白い右手の甲を己の額にそっとあてた。
何事か感じ取るようにシエラは少しの間、紋章と気を通わせていたが、
「・・・ふふ。窓辺で星を愛でておるわ。おんしが、星が好きだと言うたからじゃろうて。高貴の生まれだそうだの。漂う気品が何とも良い」
「――見えるのか!?」
思わず身を乗り出したハクヤに、シエラは魔性の声で厳かに問うた。
「この者を、おんしの雄は貫きたいのかえ?」
「――ッ!!」
ハクヤはカッと芯が熱くなるのを感じた。――歴戦の炎の英雄が頬を染めている!
「千年も生きていれば、珍しいものを見られることよ」
さも面白そうにシエラは笑った。
大きな手で口元を抑え視線をそらしたハクヤの焦りようを、始祖は弟のように愛でて
「そういうことであろ? 抱きたいが、なまじ相手が男なだけに、どう切り出せば良いか分からない」
無理に求めて嫌われたくはないし、それ以前に、傷つけてしまったらどうしようかと思う。
武術、馬術のみならず舌戦ですら負け知らずの炎の英雄が、いまや押し黙って平常心を取り戻すのに必死であった。
「そうさなあ・・・初(うぶ)なおんしの仕草に免じて、知恵を授けてやろうかの」
もう何も言うなという顔をして、ハクヤは残りのぬるい酒を水のごとくあおった。元々酒に強い体質で絶対に酔わないのが自慢だったが、このときばかりはそんな自分の体が恨めしかった。
「草原では、このようなとき、どうするのじゃ?」
・・・ようやく、少し落ち着いて来た呼吸を整えるように、ハクヤは呟いた。
「あっちの気風は荒いからな・・・押し倒して自分が恋人だと名乗りをあげる――。それだけだ・・・」
「良いではないか」
「――グラスランドとトランじゃ文化が違う!」
思わず悲痛な声をあげる。
いや、文化がどうとかいうのは口実にすぎなかった。はっきり言って女が相手であれば、堂々とグラスランド流でベッドに誘っていただろうから。
「迷うことはあるまい。おんしの雄々しい風情に、軍主殿も惚れたのであろう?」
人の悪い笑みを絶やさないシエラに、どうにでもなれというようにハクヤは言葉を押し出した。
「――男だぞ・・・・・・」
ふふ、と悪戯っぽく笑んで、シエラは「大奮発じゃの」とつぶやき、自分の右手の甲をハクヤのまだ熱い頬にそっと押し当てた。
「?・・・・・・」
「感じぬか? 死神が炎を求めるさま」
――姿が、見えた気がした――
切なく、痛く、けれど・・・甘い――――
「・・・・・・しゅえり・・・」
魅入られたようにシエラの甲に意識を委ねていたハクヤから、始祖はそっけなく右手を引き剥がして、
「ここまでじゃな、ご奉仕は。おんしが妾の好みであれば、見せることすらせなんだが。あとは自身で探すことじゃ」
優雅な身のこなしで席を立つと、シエラはくるりときびすを返し、酒場を去って行った。
「酒代はおんし持ちじゃぞ。それくらいの礼は、して然るべきじゃからの?」
と、念を押すのを忘れずに。
後には、まだ熱に浮かされたままのハクヤが、ただ一人残された。
シエラに視せられた、何かを求めるような真摯なまなざしを向けてきたシュエリの姿を、脳の隅に押しやるべきか迷いながら・・・・・・。
酒場を抜けて。
湖に沿った小道を、月明かりを心地よさげに見上げながら歩いていたシエラは、さも楽しそうにつぶやいた。
「ほんに人というものは暗示に弱い。いかがするつもりであろうの、炎の英雄殿は」
従順な夜風がシエラの頬に口づけてゆく。
「たかだか月の紋章で、他人の姿を視ることなぞ叶わぬ。まして、それを更に他の者に視せるなど」
そう。シエラはシュエリが星を愛でる姿など、見ていなかった。
星が好きだと言ったのも、かつてハクヤがシエラに何気なくこぼした台詞を引用したまでだったのだ。
「・・・ほんに、暗示に弱いものよ・・・」
老獪なる魔女はもう一度呟いた。
「あれが見たシュエリは、あれの望む幻じゃ。のう、月の紋章よ? そなたは・・・かの盗賊が望む夢を、ひととき月の光の中に視せたまでじゃのう?」
眩しげに夜空を見上げると、シエラは黒く煌めく蝙蝠に姿を変え、優雅に大地に別れを告げた。
そして、翼を持つ魔女は、しかし、心の中で付け加えた。
――とはいえ、かの幻は、真の姿に違い無かろうがの・・・・・・。
−了−
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